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創業記念式典~感恩の心をひとつに~

去る6月1日、本社講堂で創業記念式典を執り行わせて頂きました。

明治20年(1887年)に初代長谷虎吉が創業し

今年は130年という節目の年を迎えることができました。

 

これもひとえに多くの方々や

伝統に守られ生かされたからこそであると言えます。

心より御礼申し上げます。

 

創業記念式典では、正眼寺ご住職の山川宗玄老大師猊下様より

特別講演を頂きました。

講演の中で、山川老大師様と当社の繋がりについてお話しがあり

その内容は非常に興味深く、魂を揺さぶられるような内容でしたので

ご紹介させて頂きます。

 

 

今から40年前、まだ山川老大師様が雲水として

修行をはじめた頃にさかのぼります。

 

当時、岐阜県美濃加茂市にある正眼寺から

修行の場所を京都の妙心寺に移し

その当時の妙心寺派の管長であった

梶浦逸外管長様の隠侍(秘書の様な役割)

としてお仕えしていた頃の事です。

 

ある日、梶浦管長様より、直ぐに車を出すように指示され

管長様を乗せ京都の妙心寺を出発されたのだそうです。

行き先も告げられぬまま、「そこを右、そこを左」という声に従い

しばらく車を走らせると高速道路に乗り

それから更にしばらく走ると大垣ICの所で車を降りるように指示されたのでした。

 

大垣ICを降り下道を走ると、羽島方面に向かっていることが分かりました。

確か、羽島には梶浦管長様が懇意にされている

長谷虎紡績株式会社があり、そこに向かっているのが何となく分かったそうです。

 

しばらくすると、運転席から目に飛び込んで来たのは

工場からもくもくと上がる黒煙でした。

瞬時にこれはただならぬ事態であり

梶浦管長様が急ぎ車でここに来た理由も

はじめて理解できたのでした。

 

昭和52年(1977年)3月7日

この日昼過ぎに弊社平方工場から出火した火は瞬く間に燃え広がり

工場5棟(約8,000㎡)が全焼しました。

この火災によってカーペット工場にとって

最も重要な工程であるタフト機10台全てを消失し

我々にとってまさに存亡の危機を迎えたのでした。

 

梶浦管長様が羽島に到着された頃には

火災は幾分か沈静化しているとは言え

まだ騒然とした雰囲気だったそうです。

被災した工場を車中から確認し

車はそこから10分程の所にある長谷虎紡績本社に向かいました。

 

本社に到着すると、玄関には先代の長谷虎治社長他

重役が玄関で梶浦管長様を出迎え、直ぐに応接間に入りました。

 

ここからの出来事は、まだ若かった山川老大師様にとっても

非常に印象的なものであり、今でもその光景を思い出すそうです。

 

梶浦管長様は、玄関に入り開口一番「おめでとう」

という言葉を連発されたのでした。

大きな火災を出し、会社が潰れるかどうかの瀬戸際で

明らかに長谷虎治の顔は動揺し、その表情は暗く沈んでいたものでした。

そこにいきなり、「おめでとう」という言葉をかけられ

困惑の表情であったようです。

 

山川老大師様は、これから二人の間でどのようなことが起きるのか

注意深く傍で見なければと瞬時に思ったのだそうです。

 

応接間に入り、長谷虎治は梶浦管長様に

火災の状況の報告などをひと通り説明を始めます。

明らかにその表情は不安や緊張

暗い表情でうつむき加減であったそうです。

 

大きな火災に見舞われた直後であり、それも無理はありません。

それに対して梶浦管長様は、「うん、そうか、そうか」と

素っ気ない返事をするのみ。

時折、「良かったじゃないか」と拍子抜けする返事に

明らかに長谷虎治は困惑の表情をしていたのでした。

 

更に、うつ向き加減で話しを進めると

その話しを遮るかのように

「あんなボロ工場燃えて良かったじゃないか」

という言葉を浴びせかけたのでした。

 

その瞬間、はじめて長谷虎治は顔を上げ

グッと睨みつけるような目で梶浦管長の目を見たのだそうです。

そして、梶浦管長はそれを待っていたかのように

もの凄い迫力で「だから、おめでたいと言っておるのじゃ!」と

一喝するように畳み掛けた瞬間

長谷虎治は何かを悟ったかのように

ふっと落ち着いた穏やかな表情になったのだそうです。

 

山川老大師様は、その表情の変化と空気が変わったことを

今でもよく憶えているそうです。

 

その直後、長谷虎治は応接間にある電話を取り

何箇所かに電話を始めたのだそうです。

それを見た梶浦管長は、「うん、それで良い」という言葉を残し

長谷虎紡績を後にしたのだそうです。

 

この時、長谷虎治が電話をした相手の一人が

機械商社の日光商事(現ニッコーテクノ)の宮西社長様であり

この一本の電話がその後に「奇跡」とも言える、復興に繋がるのです。

(通常、機械の発注から据付までに約半年かかるのが

火災から3週間後には工場に届くなど、いくつもの幸運に恵まれ現在の当社があります。)

 

梶浦管長は、「おめでとう」という一言で

相手の沈んだ気持ちを奮い立たせ

燃え上がらせ、そして冷静にさせる。

 

恐らく、あの時自分自身を見失った状態であったならば

長谷虎治は経営判断を的確に下すことが出来ず

今の会社は無かったかもしれません。

 

この二人の間で繰り広げられたやり取りを改めて聞き

鳥肌が立つような感覚を受けました。

 

記念講演の後、山川老大師様と懇談する中で

この火災からちょうど今年で40年という節目を迎えることをお伝えすると

山川老大師様は少し驚いた様な顔をされこうお話しくださいました。

 

この日、もともとこの火災でのエピソードを

お話しする予定は無かったのだそうです。

講演を進める中で、ふとこのエピソードが頭をよぎり

この話しを始めたのだそうです。

 

「もしかしたら、この話しをしなさいと

会長さん(長谷虎治)が導いてくれたのかもしれませんね」

と優しく語りかけてくださいました。

 

節目ということを大切にすること。

そして、過去に起こった様々な出来事の意義を知り

それをどう捉えその先に活かすか。

 

この130年という意義を改めて感じると共に

150年、200年に向かって参りたいと思います。

今後共、皆様からのご指導ご鞭撻の程

よろしくお願い致します。

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