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皆様の日頃からのご愛顧により

『冴』シリーズ

「ホテル客室向けCOLLECTION1/16G」を

作成することとなりました。

 

今回の商品は

「1/16G」という高密度マシーンを

駆使して作成したコレクションです。

 

「1/16G」のハイグレードな高密度は

滑らかなグラデーションと

繊細でシャープな凹凸を

自由に表現できることが特徴です。

 

コレクションの柄は、全部で3柄。

冒頭の写真は

幾羽もの鳥が重なりあって

飛ぶ様を描いた千鳥柄を

リズムよく組み合わせることで

躍動感のあるデザインに仕上げている

“Chidori” – 千鳥 –

 

 

正方形を交互に規則正しく敷き詰められた

石畳をインスピレーションソースに

シンプルでありながら美しい表情が

際立つデザインに仕上げた。

“Ichimatsu” – 市松 –

 

 

水蒸気がゆらゆらと立ち湧いて

昇る様をインスピレーションソースに作成された

豊かな奥行きを感じさせる

“Tatsuwaku” – 立涌 –

 

どの柄もシンプルでありながらも

今までにない立体表現と

美しいグラデーションで

『冴』ある仕上がりになっています。

 

『冴』シリーズ

「ホテル客室向けCOLLECTION1/16G」は

8月末にリリース予定です。

お問い合わせ頂ければ

喜んで皆様のもとにお届けに参ります。

 

どうぞよろしくお願い申し上げます。

去る6月1日、本社講堂で創業記念式典を執り行わせて頂きました。

明治20年(1887年)に初代長谷虎吉が創業し

今年は130年という節目の年を迎えることができました。

 

これもひとえに多くの方々や

伝統に守られ生かされたからこそであると言えます。

心より御礼申し上げます。

 

創業記念式典では、正眼寺ご住職の山川宗玄老大師猊下様より

特別講演を頂きました。

講演の中で、山川老大師様と当社の繋がりについてお話しがあり

その内容は非常に興味深く、魂を揺さぶられるような内容でしたので

ご紹介させて頂きます。

 

 

今から40年前、まだ山川老大師様が雲水として

修行をはじめた頃にさかのぼります。

 

当時、岐阜県美濃加茂市にある正眼寺から

修行の場所を京都の妙心寺に移し

その当時の妙心寺派の管長であった

梶浦逸外管長様の隠侍(秘書の様な役割)

としてお仕えしていた頃の事です。

 

ある日、梶浦管長様より、直ぐに車を出すように指示され

管長様を乗せ京都の妙心寺を出発されたのだそうです。

行き先も告げられぬまま、「そこを右、そこを左」という声に従い

しばらく車を走らせると高速道路に乗り

それから更にしばらく走ると大垣ICの所で車を降りるように指示されたのでした。

 

大垣ICを降り下道を走ると、羽島方面に向かっていることが分かりました。

確か、羽島には梶浦管長様が懇意にされている

長谷虎紡績株式会社があり、そこに向かっているのが何となく分かったそうです。

 

しばらくすると、運転席から目に飛び込んで来たのは

工場からもくもくと上がる黒煙でした。

瞬時にこれはただならぬ事態であり

梶浦管長様が急ぎ車でここに来た理由も

はじめて理解できたのでした。

 

昭和52年(1977年)3月7日

この日昼過ぎに弊社平方工場から出火した火は瞬く間に燃え広がり

工場5棟(約8,000㎡)が全焼しました。

この火災によってカーペット工場にとって

最も重要な工程であるタフト機10台全てを消失し

我々にとってまさに存亡の危機を迎えたのでした。

 

梶浦管長様が羽島に到着された頃には

火災は幾分か沈静化しているとは言え

まだ騒然とした雰囲気だったそうです。

被災した工場を車中から確認し

車はそこから10分程の所にある長谷虎紡績本社に向かいました。

 

本社に到着すると、玄関には先代の長谷虎治社長他

重役が玄関で梶浦管長様を出迎え、直ぐに応接間に入りました。

 

ここからの出来事は、まだ若かった山川老大師様にとっても

非常に印象的なものであり、今でもその光景を思い出すそうです。

 

梶浦管長様は、玄関に入り開口一番「おめでとう」

という言葉を連発されたのでした。

大きな火災を出し、会社が潰れるかどうかの瀬戸際で

明らかに長谷虎治の顔は動揺し、その表情は暗く沈んでいたものでした。

そこにいきなり、「おめでとう」という言葉をかけられ

困惑の表情であったようです。

 

山川老大師様は、これから二人の間でどのようなことが起きるのか

注意深く傍で見なければと瞬時に思ったのだそうです。

 

応接間に入り、長谷虎治は梶浦管長様に

火災の状況の報告などをひと通り説明を始めます。

明らかにその表情は不安や緊張

暗い表情でうつむき加減であったそうです。

 

大きな火災に見舞われた直後であり、それも無理はありません。

それに対して梶浦管長様は、「うん、そうか、そうか」と

素っ気ない返事をするのみ。

時折、「良かったじゃないか」と拍子抜けする返事に

明らかに長谷虎治は困惑の表情をしていたのでした。

 

更に、うつ向き加減で話しを進めると

その話しを遮るかのように

「あんなボロ工場燃えて良かったじゃないか」

という言葉を浴びせかけたのでした。

 

その瞬間、はじめて長谷虎治は顔を上げ

グッと睨みつけるような目で梶浦管長の目を見たのだそうです。

そして、梶浦管長はそれを待っていたかのように

もの凄い迫力で「だから、おめでたいと言っておるのじゃ!」と

一喝するように畳み掛けた瞬間

長谷虎治は何かを悟ったかのように

ふっと落ち着いた穏やかな表情になったのだそうです。

 

山川老大師様は、その表情の変化と空気が変わったことを

今でもよく憶えているそうです。

 

その直後、長谷虎治は応接間にある電話を取り

何箇所かに電話を始めたのだそうです。

それを見た梶浦管長は、「うん、それで良い」という言葉を残し

長谷虎紡績を後にしたのだそうです。

 

この時、長谷虎治が電話をした相手の一人が

機械商社の日光商事(現ニッコーテクノ)の宮西社長様であり

この一本の電話がその後に「奇跡」とも言える、復興に繋がるのです。

(通常、機械の発注から据付までに約半年かかるのが

火災から3週間後には工場に届くなど、いくつもの幸運に恵まれ現在の当社があります。)

 

梶浦管長は、「おめでとう」という一言で

相手の沈んだ気持ちを奮い立たせ

燃え上がらせ、そして冷静にさせる。

 

恐らく、あの時自分自身を見失った状態であったならば

長谷虎治は経営判断を的確に下すことが出来ず

今の会社は無かったかもしれません。

 

この二人の間で繰り広げられたやり取りを改めて聞き

鳥肌が立つような感覚を受けました。

 

記念講演の後、山川老大師様と懇談する中で

この火災からちょうど今年で40年という節目を迎えることをお伝えすると

山川老大師様は少し驚いた様な顔をされこうお話しくださいました。

 

この日、もともとこの火災でのエピソードを

お話しする予定は無かったのだそうです。

講演を進める中で、ふとこのエピソードが頭をよぎり

この話しを始めたのだそうです。

 

「もしかしたら、この話しをしなさいと

会長さん(長谷虎治)が導いてくれたのかもしれませんね」

と優しく語りかけてくださいました。

 

節目ということを大切にすること。

そして、過去に起こった様々な出来事の意義を知り

それをどう捉えその先に活かすか。

 

この130年という意義を改めて感じると共に

150年、200年に向かって参りたいと思います。

今後共、皆様からのご指導ご鞭撻の程

よろしくお願い致します。

2016年8月

CJ(コンピュータ・ジェット・ダイ)旧機台が工場を去ってから3ヵ月後

新型CJ機の設置が完了し、晴れて生産稼働することとなりました。

 

新型CJ機では

CJが本来得意とする大柄を始め

さらに高解像度の機械となったことで

より滑らかなグラデーションや

立体的な柄表現が可能になりました。

 

2017年1月より本格的に生産稼動が始まり

ホテルや結婚式場を始め、全国からお引き合いを賜り

納品させて頂いております。

 

 

 

 

CJ旧機台は昭和55年に導入し

日本初となる、コンピュータ制御により

カーペットにデジタルプリントを施す

クロモジェット機として

インテリアにおける革新を巻き起こし

これまで36年という年月を共に歩んで参りました。

 

その間に培った確かな経験と技術をしっかりと引継ぎ

新型CJ機においてもその力を存分に発揮させていく所存です。

 

お客様のニーズに合わせた商品作りはもちろんの事

驚きや感動をご提供できるような製品を

ご提案できますよう日々技術開発に精進して参ります。

 

今後とも長谷虎紡績株式会社を

どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

 

 

5月2日の産経新聞夕刊に掲載されたエッセーをご紹介させて頂きます。

 

このエッセーを書いて投稿してくださったのは

今から50数年前、当社から遠く離れた山陰地方から親元を離れ

ご縁があり当社に就職した方です。

 

当時は、高校への進学率も高くはなく

学びたくても学べない方も多かったそうです。

そうした中、当社では学びたくても学べない方へのサポートとして

地元の高校と協力し、昼間もしくは夜間に当社の工場で働きながら

近くの高校へ通う制度を設けたのでした。

その後、時代の変化と共に高校定時制は無くなり

その代わりに短大定時制も設けられたのでした。

(現在は入学者が減り、この制度は無くなりました。)

 

そこには企業にとって最も大切なことは

人づくりと、教育を通して社会貢献をすることだという

当時の社長の強い思いがあったのです。

 

このエッセーを書いてくださった方も

ご縁あって遠く離れた岐阜県に来てくださったのでした。

そして当社を離れ50年以上経ってからも

こうしてご縁を大切にしてくださる姿勢に胸が熱くなると同時に

ご縁を通して人の集まる企業にしていきたいと強く感じております。

 

また、当社の社員が突然の来客に対して

温かく迎え入れる応対をしてくれたことを

とても嬉しく感じております。

 

ご縁尊しという言葉がありますが

このエッセーを書いてくださった方を通して

その意味を知ることが出来ました。

 

素敵なエッセーと、それを書かれた方に心から感謝申し上げます。

「3月7日を忘れるな」

 

この言葉は私たちにとって大きな意味を持つものです。

昭和52年(1977年)3月7日、今からちょうど40年前の出来事です。

この出来事を忘れないためにも、今月はこの内容をブログに上げさせて頂きました。

 

この日、弊社平方(カーペット)工場から出火した火は瞬く間に燃え広がり

工場5棟(約8,000㎡)が全焼しました。

この火災によって、カーペット工場にとって最も重要な工程である

タフト機10台全てを消失し、我々にとってまさに存亡の危機を迎えたのでした。

 

この大きな危機の時に沢山の方に助けて頂きました。

こうした御恩に感謝すると同時に

今の長谷虎紡績があるのは多くの方々の御恩のお陰であることを忘れず

しっかりとその御恩に報恩していくこと

 

そして、この災害を過去のことにせず

より安全で、お客様や地域の皆様に安心して頂ける工場運営に努め

お客様にとってより安心して頂ける会社づくりに向け

努力精進していくことを、ここにお誓いさせて頂きます。

 

 

先日の3月15日(水)の自警団の日には

羽島市消防署のご協力のもと、初期消火訓練を実施致しました。

 

社の自警団活動は毎月2回(1日・15日)実施しております。

こうした災害を二度と出さないことを第一に

万一災害が発生した場合、すぐに適切な対応ができるよう

これからもこの自警団活動に取り組んで参ります。

 

 

こうした訓練の積み重ねが

社員一人ひとりの防災意識とレベルの向上に繋がり

万一、家庭や地域で何か災害があった時

必ず大きな力になると信じています。

 

地域や社会にとって無くてはならない会社づくりへ。

「3月7日」の教訓をしっかりと心に刻み

これからも社員一同力を合わせ頑張ります。

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